豊頃町の歴史

大津地区

寛政10年(1798)頃には、すでに大津に番屋が配置され、寛政11年には駅逓も置かれていました。文化2年(1805)には大津・釧路間に道路が開通しています。この当時の大津は、漁場や交通の要衝として賑わっていたことが推測されます。
この頃、ロシアなどの外国船が頻繁に蝦夷地の近海にあらわれるようになり、幕府が北辺の防衛を重視し、これに必要な各種の対策が急速に進められました。中でも道路整備は重要な課題であり、広尾を経て日高に至る道路も整備され、旅宿所・昼休所などの施設が設けられました。
また、十勝内陸の産業の開拓振興にも意が注がれ、安政5年(1858)には,函館奉行の命を受けた松浦武四郎らが十勝川筋の状況を調査しています。こうして、大津は漁業の発展と共に、十勝内陸開発の門戸として、あるいは海運・道路交通の拠点として大いに発展をとげたのです。

大津地区

はじめの頃の大津市街(町史編纂資料)

茂岩地区

明治20年(1887)頃、井上義保が旅来から入植したのが始まりとされています。大津から十勝川をさかのぼり、奥地へと入植する人々の宿場や、物資の集散地として駅逓なども設置されました。また、十勝川左岸の幌岡地区とは渡船で結ばれ、人々の往来も盛んになりました。明治26年に大津・芽室間の道路が完成、郵便取扱所、簡易教育所、巡査駐在所などができました。
明治39年には、2級町村制施行により豊頃村ができ、茂岩市街地の形成が一段と進展しました。戦後、多くの国の出先機関や農協等ができ一層の発展を遂げました。

長節地区

明治30年(1897)に千葉県の津田貞次郎、大須賀寅之助らが入植しましたが、泥炭地と湿地のため農業には適さず、造林作業等で生計を立てていました。明治44年(1911)、国営直轄事業として明渠排水工事、河川の切り替え、築堤整備に着手、昭和52年(1977)に一連の工事が完了、酪農経営を中心とした農業が進められています。

農野牛地区

明治30年(1897)、大野久七が入植したのが始まりです。この地は全くの原始林や熊笹に覆われた未開の地であり、乗馬で茂岩と行き来をしていました。何度も洪水や冷害に見舞われながら開拓が進められました。
その後、島村農場の解放や酪農経営、水田稲作などが取り組まれました。近年では農業構造改善事業等も取り入れ、安定した農業経営を目指しています。

旅来地区

明治14年(1881)、幌泉の藤井富兵衛が入植。同17年長臼にウタリ(アイヌ)救済事務所が置かれ、アイヌに農業を教えましたが5年で取りやめになりました。明治25年釧路分監が置かれ、大津・帯広間の道路開削が進められました。昭和40年(1965)牛首別・旅来間に築堤が完成、ようやく洪水の心配から解放されました。

茂岩南区

安骨地区は、アイヌ語で砦の跡という意味で、十勝アイヌと日高アイヌの戦場となった所です。明治28年(1895)、大津に住んでいた橋本順三が初めて入植しました。十勝川左岸の下幌岡とは渡船で結ばれ、安骨小学校への通学にも使われていました。この地も、時々洪水や冷害に見まわれ農業経営は困難を極めました。背負の道有林は、昭和61年に、木との触れ合いを通じて、森林や林業の学習ができる森林学習公園「久保の森」が整備され、町内はもとより近隣町村からも多数利用されています。

豊頃地区

明治25年(1892)、幌岡に開拓者が入植、この地区の開拓が始まりました。以後10年あまりで179ha余が開拓されました。明治37年工事が進められていた帯広・利別間が開通、豊頃駅が整備されると物資の集散地として大きな発展を遂げました。また、昭和15年(1940)村費と寄附金によって、旧十勝川に豊頃橋が完成、昭和52年には農業協同組合の事務所などの施設が作られ豊頃市街地の形成や交通の様子が大きく様変わりしました。
また、昭和30年頃に佐々田沼にスケートリンクが作られ、各種の大会が開催されるようになり、スケート王国十勝の基礎が築かれました。

中央区

中央区は、昭和28年(1953)、それまでは農家が数戸あった所に、公営住宅が25戸(母と子の家付近15戸、児童公園付近10戸)建設された頃から発展が続いています。昭和30年豊頃中学校が、旧豊頃・w校・茂岩中学校を統合し、新築され市街地形成に拍車がかかりました。
中央区の名称は、行政区として中央区とよばれていましたが、地番は昭和54年の改正により中央新町・中央若葉町となりました。昭和36年現茂岩橋が完成、それまでは渡船も活躍していました。昭和58年、道東と十勝を結ぶ動脈である近代的な豊頃大橋が完成しました。平成3年、豊頃小学校・礼文内小学校が統合、現在地に校舎を新築、中央区の通学区域が茂岩小学校より豊頃小学校へ変更になりました。

十弗地区

明治24年(1891)頃より入植が始まり、毎年のように移住者が増加しました。明治32年(1899)には僧侶羽賀正真が育素多に私立簡易教育所、十弗に説教所を開設、布教活動が行われました。明治44年(1911)には十弗駅が設置され、昭和に入り郵便局も開かれました。昭和27年(1952)には、他の地区に先駆けて全地区に共同聴取施設(有線ラジオ放送)が完成しています。昭和30年(1955)には種川権次郎が大豆の新品種を発見、後に「ゴンジロー大豆」と命名され、冷害に強い品種として農家に広まりました。
住民の郷土に寄せる思いは大きく、校下住民の手で「礼文内郷土史」を刊行、地域の歴史を記録する活動が継続されています。

統内地区

明治27年(1894)、越前の人坂下市太郎・岩崎仁作が入植、少し遅れて礼作別・一里塚・二里塚等にも移民が入植しました。大津・帯広間の道路が開通後は、移住者も急増しました。愛知県人竹下園吉は乳牛を飼育し、自家製のバターやチーズを作るなど、本町における酪農の先駆者となりました。昭和7年(1932)、十勝川治水工事開始、治水官舎、事務所等ができましたが戦争で工事が中止になりました。平和高台一帯の用地が陸軍飛行場として買収されるなど、戦争の影響を大きく受けた地域です。

大正時代の少女

大正時代の少女

二宮地区

この地区は川沿いから開拓が進められました。明治27年(1894)頃から富山県人や広島県人が入植を始めています。明治29年(1896)二宮尊親興復社社長らが石狩や富良野付近を調査の後、十勝平野の調査に大津から入りました。望みの土地がなかなか見つからず、最後に二宮地区を探検調査しました。ようやく念願の土地を見つけ、二宮地区を事業地と決定し、入植を開始した。明治34年までの5年間で160戸が入植、農地844ha、橋61個所、道路13,200m,排水溝51,000mを造成,その他宅地や防風林、薪炭用林など1,345町歩(約1,345ha)の二宮大農場が完成しました。

湧洞地区

明治13年(1880)、佐藤嘉兵衛の入地に始まりで、当初は駅逓を営みました。明治16年青森県人吉田新六が入植、開拓が始まりました。当初は、濃霧や洪水に見まわれながらも農業に取組み,入植者もしだいに増えて行きました。近年では畑作から酪農へと転換を図り、町営の大規模草地の造成などが取り組まれてきており、現在は、一部自動車のテストコースになっています。

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